ルパート・スパイラ(Rupert Spira)のサイトからQ&Aを紹介するシリーズですが、今回は存在と探求についてです。微妙なレベルにおける探求について触れられていて、興味深いです。
193) The Entity And Its Search
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存在と探求
Q. この探究をする際には微妙に隠された意図を持っていてはいけない、何かから解放されるために探究をしてはいけないと、あなたはいつも言います。これがどのように可能なのかが私には分かりません。特に、何かをしてはいけないと言われるとマインドは必ずそれをしてしまうものです。
私がこの探究をするのは、何かを取り除くため、幻想や分離した「私」というこの感覚から解放されるため、それと関連した苦しみや絶望から逃れるため、そしてすべてのことから自由になるといったことのためです。そこにはそれがどんなに微妙なものであったとしても、いつも隠された意図があります。
あなたの力添えと思いやりに深く感謝します。
美しい月光の夜にスイスより心をこめて
ピーター
A. 分離した「私」がそれ自身のために何かをなしとげようとする場合 ― それが世俗的なものであってもスピリチュアルなものであっても ― 、そのことは当然ながら分離した「私」を強化します。
分離した「私」から解放されたがっているのは、分離した「私」です。
分離した「私」そのものが探求であり、それが幸福を覆い隠しています。探求は「私」がすることではなく、「私」そのものが探求なのです。
遅かれ早かれ私たちはこの探求そのもの ― 単純により良い対象を求め続けるよりも、むしろ何かから自由になろうとすること ― を問題にするようになります。
そして、探求をしている存在から解放されようと試みるかわりに、探求をしている存在を見つけ出してそれが本当に何であるのかをじっくり検討してみようと決めます。ところがそれを見つけようとしても、それは無理です。存在していない存在を見つけることはもちろん、それから解放されることなどできるでしょうか?
言い換えると、苦しみを終わらせようとすること、苦しみから自由になろうとすることは、まず苦しんでいる存在が確かにあるということを前提にしていて、その信念によってその存在と苦しみは必然的に永続することになります。
分離した「私」が実在しているとみなされている限り、私たちがそれから解放されようとするのは避けられません。これは、存在とその存在が苦しみを終わらせようとする探求によって起こる悪循環であり、終わることなく無限に続くものです。
どこかの段階で、通常は調べることによって、その存在が実際には存在していないことが明らかになります。この段階では探求と苦しみはすぐには終わらないかもしれませんが、次第に終わりに近づき始めます。
ただし、探求が非常に微妙なものであり、私たちのほとんどが感じているよりもはるかに微妙であるということについてはあなたの言うとおりです。探求の細かい層の本質を感じ取るのに必要とされる感受性といったことについては、メールで説明するのは困難なことです。私の経験では、それは徹底的に誠実で黙想的な道 ― ある段階において、合理的なマインドには届かないような深さに達する道 ― です。
陽光のあふれる英国より心をこめて
ルパート
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またもや最後は言葉では説明できないという説明で終わっています。このあたりのニュアンスについては、今年の夏に彼が受けたインタビューが参考になるように思うので、もし許可が得られたら翻訳してみたいと思っています。
ヒロさんはじめまして。suhoと申します。
ブログリンクありがとうございます。
ブログ拝見しましたが、 ルパート・スパイラさんの言葉・表現がとても明快でわかりやすく腑に落ちました。
ヒロさんの翻訳が正確にニュアンスを伝えているのと感じました。
「行為者(探求者)は存在しない」という事実は、ある意味ショッキングですが、同時にとてもシンプルになりますね。
suhoさん、初めまして。見ていただいてありがとうございます。
suhoさんのブログで何度もドキっとしたり脳天に一撃をくらう表現に出会うことがあり、それが楽しくて(ちょっと恐ろしく感じる時もありますが・・)いつも拝見させていただいています。
今後ともよろしくお願いします。
スパイラさんのQ&Aシリーズはいいですね。
なるほどと思える箇所が多々あります。
続編を期待します。
夏のインタビューも楽しみにしています
ヒロさんは僕のブログの超数少ない読者(爆)の貴重なおひとりさまだったのですね。。
ありがたいです。
こちらこそ今後ともよろしくお願いします。