非二元に関するルパート・スパイラの説明を翻訳紹介するシリーズですが、今日はAwarenessです。
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気づき
こうして書かれている言葉をたった今読んでいる何かが存在しています。この「何か」が何であろうと、それは疑いなく存在し、そして気づいています。それを気づきと呼ぶことにしましょう。
私たちが気づきとして存在しているということは、経験のもっとも根本的な側面です。私たちは皆、「私はいる」ということを知っています。
「私はいる」という経験のなかで、自分が存在していること、それと同時に気づいているということを、私たちは知っています。
気づきと実在は、「私はいる」という経験のなかで、その両方が一つのものとして存在しています。
気づきはその名のとおり気づいていて、従ってそれ自体に気づいています。気づきはそれ自身を知っています。気づきのそれ自体についての気づきは、常に存在しています。気づきは、それ自体を知らないということも有り得なければ、それ自体ではないということも有り得ません。
マインド、身体、世界は絶え間なく現れては消えていきますが、この、私たちの根本的な性質であるところの気づき/実在は、現れることも消えることも動くことも変化することも決してありません。
気づきは、マインド、身体、世界のすべての現象がその中で生じる無限の空間のようなものであり、私たちが自身の経験を厳密に調べてみるとき、気づきがそうした現象の実体でもあることを理解します。
通常、私たちは気づきを私たちの身体やマインドと関連づけて考え、そのことにより、私たちは気づきを、ちっぽけで弱く時間と空間の中に位置する存在へと縮小させ、それは、私たちの自己をそのように縮小させるということです。「私は在る」という経験は、「私は身体である」になります。
このようにして、気づきに固有のものである平安と幸福は見かけの上で覆い隠され、そしてその結果、幸福の大変な探求が始まります。
この探求は、最終的には、私たち自身が最初から私たちが求めていたそのものであったということ、私たちが最初から、観照者であると同時にすべてのものの実体であり、平安と幸福の真の住居であるこの実在する気づきであったということを明確に理解したときに、解決をみます。
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ヒロさん こんにちは
スパイラさんのシリーズいいですね。
アップしてくれてありがとうございます。
さて
>通常、私たちは気づきを私たちの身体やマインドと関連づけて考え、そのことにより、私たちは気づきを、ちっぽけで弱く時間と空間の中に位置する存在へと縮小させ、それは、私たちの自己をそのように縮小させるということです。「私は在る」という経験は、「私は身体である」になります。
ここには一つの核心が述べられていると思います。
ところでここにおいての疑問は、気づきが認識と言う意味ならば、我々の認識は体においてのみなされるのではないでしょうか?
例えば、今私はこのPCの画面を認識します。次に目を瞑ります。するとこのPCの画面は認識できません。
このように私達の認識は体を基にした感覚に制限されています。
もし気づきが我々の体を越えたものならば、私が目を開けようが、瞑ろうが、周りを認識できそうなものですが。
なぜ特定の体に基づいた認識しかできないのでしょうか?
スパイラさんの言っていることはこういう意味とはまた違うのですかね?
単に、認識作用のみのことを言っているのでしょうか?
僕の解釈を書いても仕方ない気もするのですが、思うに、PCの画面を認識していないということを認識している何かがあって、その認識は必ずしも身体の感覚を必要としていない、ということではないでしょうか。
目をつぶると確かに見えなくなりますが、見えなくなったというそのことは確かに認識しています。
世界という相対的な経験は、自分が身体というものに収縮したときに初めて現れるという話を、ルパートがあるインタビューでしていましたが、自分は身体内存在であるという一般的な視点からすると、世界の認識が身体を通してのみ行われるように感じられるというのは当然のことではないかと思います。
ヒロさん どうもです
>PCの画面を認識していないということを認識している何かがあって、その認識は必ずしも身体の感覚を必要としていない、ということではないでしょうか。
目をつぶると確かに見えなくなりますが、見えなくなったというそのことは確かに認識しています。
なるほどヒロさんの解釈だと、 つまりここでいう気づきとは、単なる認識作用ということですね。
>自分は身体内存在であるという一般的な視点からすると、世界の認識が身体を通してのみ行われるように感じられるというのは当然のことではないかと思います。
たしかに一般的な視点からすれば、疑いのないことですが、そうなるとスパイラさんの主張(気づきは身体を越えている、全てを現象させる空間のようなもの等等)はどのような根拠からでてくると思われますか?
超越的な体験でしょうか? スパイラさん自身は「調べる」という言葉を多用されているように思えますが、そこから考えれば、我々の普段の立場から根拠づけられなければならないように思えます。
ヒロさんはどう思われますか?
本当に、どこから出てくるのでしょうね。
僕も、不確実な存在であるはずの人間が、そもそもなぜ確実なこと、絶対的なことを把握できるのかという点には不思議を感じます。
先月彼の口から聞いたのは、体験にせよ実験にせよ、それが借り物であれば理解にはつながらないということでした。そのことから言えば、理解につながった何らかの根拠があるということは確かなように思います。ただ、それが普通の人間の普通の状態で再現できるようなことであるのかどうかは分かりません。
>気づきは身体を越えている、全てを現象させる空間のようなもの
「身体が見て感じている。それは確かな感覚でありそれが根拠である。」
というのは実際、事実ではなくて1つの「解釈」ではないでしょうか?
そのような知的な解釈が生じる以前は「身体が感じている」とか「目で見ている」という解釈以前の、名も無い知覚が生じているだけ、が確認されます。
我々の日常は、すべてこの名も無き「知覚の変化」で構成されていて(そしてそれに知的解釈が加わることで意味、世界が想起する)、スパイラさんの言っていることの根拠は何かとなれば、この日常が根拠そのものであると感じます。
例えば「我々の普段の立場から根拠づけられなければならない」「不確実な存在であるはずの人間」というのも、1つの想い、解釈であって、それは刻々と生じる知覚の1つの顕れではないでしょうか?
これも含め、ありとあらゆる知覚、変化が生じている、いま、ここのプロセス自体は、どのようにも定義できないので、スパイラさんは「気づきは身体を越えている、全てを現象させる空間のようなもの」という表現を便宜上使っているのだと思います。そのような実体があるわけではないと思います(少なくとも僕は確認できません)
どうもこうして書いてしまうと冬の光さんやヒロさんの想いを否定しているような表現になってしまいますが、そのような意図で書いているわけでは全くありませんのでご理解ください。
知覚の意味的な側面ではなく、運動的な側面を調べれば、事実として常にそうであることがわかるかと思います。
論点がずれていたらすみません。。
まさにsuhoさんの言われる通りだという気がします。
という思考がいま起こっていて、それが自分とどう関係あるのかということはよく分かりませんが、その分からなさも起こっていることのひとつなんだろうなと、苦笑してみたり呆然としてみたりするしかありません。
意味を求めようとする動き、定義を求めようとする動き、そういう動きがひっきりなしに生じています。
>という思考がいま起こっていて、それが自分とどう関係あるのかということはよく分かりませんが、その分からなさも起こっていることのひとつなんだろうなと、苦笑してみたり呆然としてみたりするしかありません。
そうですね。それはわからないのです。
という反応がヒロさんの文章を読み、いまここで起こっていて、それもなぜ起こっているのかわからない。。
けど、起こっているのは確かですね。
で、今、昼飯をどうしようか、という思いが起こってます。