この動画は、2009年にジョーン・トリフソンがオレゴンの地元のテレビ(RVTV)のインタビューを受けたときのものだ。
Like, wow! #22 Right Here Right Now
冒頭で、インタビュアーが「スピリチュアル・ティーチャー」という言葉を使ったとき、ジョーンは笑って「その言葉には共感できない要素がある」と言っている。
非二元について語るいろいろな人が、いろいろな肩書きを名乗る。ティーチャー (教師) という名称を拒否する人たちもいる。ティーチャーを名乗る人たちを罵倒するトニー・パーソンズのような人も中にはいる。教えられることができることなど何もないし、教える人も教えられる人もいないのだから、ということだろう。
単にスピーカー (講演者) とかオーサー (著者) とかいう言葉を使う人もいるようだが、結局呼び名はどうでもいい気がする。
思いっきりティーチャーと名乗っていても、そのメッセージの内容が「(分かっている自分から分かっていないお前さんに)教えてしんぜよう」という雰囲気のものではなければ全然構わない。
逆に、「非個人的メッセージの配達媒体(ただし見かけ上の)」などというややこしい肩書きを名乗っていても、語る内容が二元的だったり、特別そうな雰囲気を醸し出したりしていれば、「ティーチャーになってるじゃん」と突っ込みたくなる。
肩書きはどうであるとしても、このインタビューを眺めていると、本当にジョーンの普通さが印象的だ。思わせぶりなところが何もなく、本当にこれしかないんだよ、ということが全身からにじみ出ている。
以前、「投影を許さない普通さの恩恵」という記事を書いたことがある。そこではロジャー・リンデンの普通さについて書いたのだが、ジョーンの普通さには更に救われる気がする。
彼女のメッセージに触れていると、未来の遠いどこかに向かっていた探求のエネルギーがやや落ち着いて、目の前の麦茶の味と雨の音を楽しんでいる自分に気がつき、愉快になる。
ジョーン・トリフソンのシリーズは響きました。私にとってはとても良かったです。
より良い、より理想的などこかに行こうとする動きは「頭の中のルームランナー」なのでしょうか。
今停滞感があって、やや落ち込んでいるのを感じています。
しかしそのままでいいというか、それ以外はないですね。
喜びに溢れて活き活きとしている状態をあるべき理想としているから、今を否定してしまうのかも知れません。
現実に起こっていることを否定する馬鹿馬鹿しさを感じています。
体験したくないことが起こっても、それが実際に起こっていることなのだから良いも悪いもないと思えてきました。
今どんな状態かよりも、選り好みして、それを否定することで疲れてしまっていたのかなと感じています。
そうすると落ち込みの中にも安らぎがあるのを感じて、それはたぶんヒロさんが「目の前の麦茶の味と雨の音を楽しんでいる自分に気がつき、愉快になる」と書かれた時に感じた質と同じものではないかと、勝手な想像ですがそんな考えが浮かびました。
連コメ失礼します。
安らぎを感じたといっても、また動揺したり苦しんだりがやってきて、それはどうすることも出来ないようです。
今は不満です。
不満の何がいけないのか?
不満感があるならその中にどっぷり浸かっていればいいじゃないか。
こんなふうに考えるのも、そうすることで変わると期待したからで、操作して何とかしようと、理想の状態へ向かおうとしています。
でもそれが今の私に起こっていることで、この状態が目覚めた人の状態よりも劣っているから、目覚めに向かって進むべきということではないですよね。
しがみ付ける結論はなくて、変化しつづけるありのままが、ただあるだけなのかなと思います。
沈黙していればいいものを無駄コメントをしてしまった気がしますが、書きたくなったのでこうなりました。