アジャシャンティと二冊の本

 
アジャシャンティの著書 emptiness dancing をパラパラと読みなおしていたら、最後のインタビューが面白かった。彼に影響を与えた本について話だ。

そのまま訳すことはしないが、こんな感じだ。

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Q. これまでにたくさんの本を読んできたということですが、どんな本から大きな影響を受けましたか?

A. まず、24歳のときの最初の覚醒の少し前に読んだイエズスの聖テレジア (アビラの聖テレサ) の自叙伝です。当時は禅の修行をしていましたが、キリスト教神秘主義にも惹かれていたんです。この自叙伝は、最初の2ページを読んだだけでその愛に打たれ、聖テレサに夢中になりました。自叙伝以外にも、彼女についての本を6〜7冊読みました。今考えると、これらの本は私のハートを開く助けになったように思います。感情という側面について言うと、禅は少しドライですから。

もう一冊自分にとって重要なのは、ニサルガダッタ・マハラジのI Am That (邦訳は『アイ・アム・ザット 私は在る』) です。覚醒の前にも読んだことがありましたが、当時はあまりよくわかりませんでした。覚醒の後で再度読んだのですが、まるで自分自身の経験を誰かがそのまま言葉にしてくれたという感じでした。自分の覚醒の前にも後にも、これほど明解な表現には出会ったことがありません。

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そして、その後、アジャシャンティは本一般について、こう続けている。

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覚醒は言葉では語れません。本が覚醒をもたらすことはありません。ですから、ある時点で本や文章を超える必要があります。それでも自分にとっては、いろいろな本を読むことは、マインドからいろいろなものを洗い流すことに役立ちました。

知性や知的なアプローチは、スピリチュアルな探求においてはそれほど評価されていません。ですが実際には、本が重要な役割を果たすこともあります。適切なときに適切な本を読むことで、認識がもたらされることもあるんです。ミーティングで教師がすることと同じような役割を果たすということです。「ああ、私はそれを知っている。自分が知っているということに気がついていなかっただけなんだ」というような洞察が生じます。

本は、著者の意識や存在を伝播します。受け取る側の感性によっては、これはとてもパワフルなことになりえます。I Am Thatのような本がパワフルなのは、そういう理由です。言葉そのものは言葉であるにすぎません。重要なのは、誰がその言葉を発しているかということです。

ただ、本にしても教師にしても、それに依存することは助けになりません。依存をしはじめると、本や教師によって灯された炎は本当にすぐに消えてしまいます。依存することなく、自分で進まなくてはいけません。どんな教師も、どんな本も、自分がすべきことを代わりにやってはくれないんです。炎を保つのはあなた自身の仕事です。

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トニー・パーソンズは「本はクズだ」と言うが、アジャシャンティの方がバランスがとれているように思う。自分が本好きだから言うのではないが、どんな可能性も否定したくないと思う。

個人的には、「悟るためには最低でも一度は生きているグルと出会う必要がある」といったロマンチックな表現にも惹かれるところがあるが、本だけでなく、ネットの動画も当然ながら大きな役割を果たしえるということになりそうだ。