跳んでみろ ジョーイ・ロット

  
久しぶりにジョーイ・ロットの文章。

ジョーイの書くものは否定形が多く、たとえば『これのこと』で展開されているのはその極限的形態だ。だから誤解されることもあるのは確か。でも、根底には経験から生まれた深い信頼がある。この「跳躍」というブログ記事は、あまりスムーズには流れないし、彼のベストの文章ではなさそうだけれど、その信頼は間違いなく感じられる。

原文: Leap (joeylott.com)

== 以下、訳 ==

跳躍

まずこの投稿の背景から。

最近ある人からメールを受け取ったが、そこには、なぜ自分が苦しんでいるかを見抜いたと書かれていた。そういう洞察は興味深いかもしれないし、場合によっては真実なのかもしれない。でも、その洞察をまるで救いの源のように大事にするのは間違いだ。

救いを求めれば、救いが必要だってことを立証するだけだ。求めるのを一瞬だけやめよう。

それから、それと同時に友人のジョン・ヴィーンからもメールが届いたが、そこにジョンが書いていた見解はすごく重要だと思う。それは、内側の気づきと外側の気づきは同時に起こるっていうことだった。というよりも、僕は確信しているけれど、そのふたつは同じものだ。

これを書いている時点では、ジョンが僕に知らせてくれた文章 (「メタファー・シチュー」) は彼のサイトでまだ読める。もしまだあったら、読んでみるといい。

三つ目。ときたまやりとりをする別の人からもメールをもらったが、そこに書いてあったことには前のふたつとちょうど符合する何かがあった。それに刺激されて、今日これを書いている。

そのメールで彼が書いていたのは、形あるものの無常性と空性を6年前に悟ったのに ― そしてそれと同時に軽やかさを経験したのに ― 、惨めさもその惨めさは問題だという感覚もまだ残っているということだった。

惨めさは問題だっていう感覚は、ひとつの態度が前提になっている。それは、確かさとかアイデンティティにしがみつこうとする態度だ。

で、皮肉なことだけど、そのせいで惨めさが惨めになる。

惨めさが惨めなのは何かにしがみつこうとするからで、惨めだからじゃない。

それがわかったら、「内側」の混乱で頭を悩ますのをよせばいいだけだ。

もちろん、悩みは続くはずだ。それは仕方ない。でも何が起こっているかがわかったら、ただ跳躍することだ。

「跳躍」とはどんな意味だろう?

それについては前にもこのブログで書いた気はするけれど、また詳しく書いてみるだけの価値はあると思う。子どものころ、僕は父親とプールに行っていた。プールには浅いエリアと深いエリアがあって、深い方には飛び込み台があった。

飛び込み台は僕の心を掴んだ。そこから水に飛び込みたいと思った。

僕は梯子を登って台に上がった。端まで進んだ。覗き込んだ。そして固まった。

圧倒的な恐怖だった。跳んでも死なないってことは理屈ではわかっていたのに ― 飛び込んだ人たちがかすり傷も負ってないことはそれまでに何ヶ月も見ていて知っていた ―、理屈ではどうにもならなかった。

結局、梯子をつたって台から降りた。

それでもまだ心を惹かれていた。で、台に上がって端まで進み、ということを繰り返した。跳びたかったが、恐怖で体が固まった状態から抜け出せなかった。

ついに、何が起こっているかを理解した。同じことを何度繰り返してもうまくいかないことがわかった。近づいてはいなかった。進んではいなかった。同じことを何度も何度もやっているだけだった。

そして、僕は跳んだ。

で、あら不思議、僕はまだ生きていた。

そのあともまだ怖さはある。飛び込み台からプールに飛び込むのは恐ろしい。

でも僕は経験した。それを知った。理屈じゃない。理論じゃない。やった気になったわけじゃない。

本当の経験だった。

今では、跳ぼうと思えばいつでも跳べる。

スピリチュアルなことに関してもまったく同じだ。

束縛されているっていう感覚が、自由を求める探求に僕たちを駆り立てる。

求めている自由がどんなものかを僕たちは知らないけれど、それは、その自由が自分の苦しみの元になっている束縛を解決してくれるはずだと理論として知っているだけだからだ。

やがてあるとき、自分が崖っぷちに立っていることを自覚する。その瞬間が来る前も、僕たちはずっと崖っぷちにいたのに、それを意識していなかったのだ。

その瞬間に、自分が崖っぷちにいることを認識する。そして、すでに自由だったことがわかるが、それを意識的に経験して、知って、体現するためには跳躍が必要だ。

唯一の問題は、跳躍に対する恐怖が圧倒的だってことだ。だからたいてい僕たちは思考の方に向きを変える。分析をする。理屈を使う。進歩はしてるとか、取り組んでるとか言って自分を納得させる。

でも必要なのは跳躍すること、経験することだ。

だから跳ぼう。ただ跳ぶ。

跳躍は無謀だ。跳躍は僕たちの持つ保守性と真っ向から対立する。突飛だし不合理だ。思考は「念のために立ち止まってちゃんと考えろ」と言う。

跳躍というのは、「内側」に一切構わず、そのかわりに外側に跳ぶことだ。この瞬間だけ既知をすべて無視しよう。自分をまるごと外側へ放って、振り返らない。

パラシュート無し。ロープ無し。転落防止ネットも無し。

といっても誤解しないように。無謀なやり方で人生を生きろと言ってるわけじゃない。仕事をやめろとか、家族を捨てろとか、住宅ローンを返すなとか、そんなことは言ってない。それは僕の言ってる跳躍とは違う。

跳躍っていうのは、自分と自分の人生の問題を解決しようとしていつまでも内側に焦点を向けているのをやめて、外側に完全に解き放つことだ。

飛び込み台から跳ぶのと同じで、この跳躍は永遠には続かない。一瞬のことだ。火花だ。稲妻みたいに、それは暗闇を裂いて、ほんの一瞬だけすべてを照らし出す。

ただ、ずっとは続かないけれど、それは印象を残す。稲妻がそれを見る人の脳に残像を残すように。

一度見れば、一度経験すれば、元に戻ることはない。

飛び込み台から跳ぶと、外側に向けて理屈を超えて無謀に何度も自分を放る自信がつく。僕がここで言っている跳躍にも、それと同じ効果がある。

この跳躍が意味しているのは、思考、執着、しがみつき、硬直、支え、アイデンティティ、信頼できるもの、確実なものをすべて手放すことだ。本当に一瞬だけ。必要なのはそれだけだ。

これで問題が解決するわけじゃない。惨めさは全部そのままだ。

でもこの跳躍によって、惨めさが惨めなのはしがみつこうとすることの作用だってことがはっきりする。しがみつくとは、注意をずっと内側に向けていることだ。自分と自分の人生の問題を解決しようとすることだ。

繰り返しになるけれど、跳躍したとしても、惨めさも不快さも恐怖もなくならない。でも一度でも経験すると、跳躍しやすくなる。そして跳躍するたびに、偽りが偽りであることがはっきりしてくる。

偽の問題を解決しようとしないこと。

惨めさは偽の問題だ。

「自分」は偽の問題だ。

「自分の人生」は偽の問題だ。

自分の欠点も恥もすべて偽の問題だ。

持続的な至福状態がないこと、持続的な跳躍状態がないことは偽の問題だ。

ただ跳ぼう。真相を見よう。

締めくくる前に、ここで言っていることを示す例を、僕の人生からひとつあげてみたい。

僕は拒食症だった。「だった」と書いている。そう書くのは、当時と同じような強迫的プログラムは今ではそんなに動いていないから、ではない。単に、そのことに絶え間なく注意を向け続けるのをやめたってことだ。

ちょっと想像してみてほしい。食べ物や自分の身体感覚を脅威として ― 解決すべき重大な問題として ― 受け取るっていうのはどんな感じかを。目が覚めているあいだずっと、この強迫観念が自分の心を占めていたらどんな感じがするかを。自分のまわりで他の人たちがおしゃべりをしているとき、それどころか楽しそうに過ごしているとき、自分の注意のすべてが今食べたもの、これから食べるかもしれないもの、そしてそういう食べ物が自分に及ぼす影響に集中しているのはどんな感じかを。

僕の人生は長いことそんなふうだった。

僕はずっと、その問題には自分で見つけて実行できる解決策があるんだと思っていた。でも見つけようとすればするほど、強迫観念はさらにひどくなった。解決に近づいてはいなかった。僕は問題を作っていた。

解決策は、僕が見つけたことでも実行したことでもなかった。恐怖や不安を取り除くことは解決にならなかった。解決策は跳躍することだった。

跳んでも行動がすぐに変わったわけじゃない。それに、跳躍が恐怖も強迫傾向も変えなかったこと、取り除かなかったことは、ほとんど間違いない。

跳躍は、このケースでは、僕の視野をものすごく広くした。跳躍することで、自分の視野がどれだけ狭かったかがわかった。

視野が狭いのは悪いことじゃない。でも視野は狭い。嫌でどうにもならない何かに注意が固定してしまっているような逆境にある人にとっては、視野が狭いことはひどく不快だ。

そういう視野の狭さについて言えるのは、その本人は自分の視野が狭まっているとは気づいてないってことだ。その制限された視界が全部なんだと本当に思える。人生まるごとがひどい悪夢のようなまったくの苦難に感じられるかもしれない。それが自殺する人が存在している理由のひとつだ。

跳躍すると、視野が狭くなっていることが明らかになる。それは生全体を一瞬はっきりと照らし出す稲妻のようだ。習慣や性向を変えることはない。それでも文脈を垣間見せてくれる。そして重要なのは文脈だ。たぶん文脈はほかのどんなことよりも重要だ。

これを読んでいる人は拒食症ではないかもしれない。でも視野は狭くなっている。みんなそうだ。

跳躍しても、たぶん視野の狭さは解消しない。でもその視野の狭さが無限の文脈のどこにあるかは間違いなくわかるだろう。そしてそのことが、何も変えずにすべてを変える。

== 訳は以上 ==

訳し終えて気づいたが、この文章は『これのこと』の最後に出てくる水の話とモチーフが似ている。あれは比喩のようで比喩じゃないんだな、と思った。

それと、摂食障害で思い出したが、「トニ・パッカーの言葉」というジョーン・トリフソンの文章がこの一ヶ月ほどかなりの回数読まれている。なんでかなと調べてみたら、こんな記事で紹介されていた。

過食からの気づき (ターシャの庭に憧れて)

ジョーイ・ロットの今回の記事もそうだが、非二元という切り口は必ずしも有用ではないような気が最近している。まして、覚醒だの一瞥だのの話は有害ですらありそうだ (自分のこれまでのことを考えても)。

有用かどうかという基準には意味がない、と言われてしまいそうではある。でも、そこに気持ちが向いている。

次に訳そうとしているLUのイローナの記事も、「できることは何もない」教から破門されかねないほど有用性たっぷりだ(笑)

ともすると、役に立たなければ存在価値がないという極にも向かってしまいかねないのだが、もう少しニュートラルなところから有用性を差し出せる可能性が探れたらなどと思う。

と、秋風が吹くとやっぱり頭がいろいろと考え始めますね。跳躍とはほど遠い気も(笑)