集まりがやってきた

 
シンスケさんに訊け!山梨オフは、その名称は適切だったのだろうかといった疑いを軽々と乗り越えて、シンスケさんと8人の方々を迎えて甲府で開かれた。

まず、参加された方々に感謝。今回の集まりに関心を示された方たちにも深く感謝したい。それから、それ以外の方々にも同じ感謝を。

僕が2年ほど前までしきりに参加していた集まりでは、「私はいない」という概念が前提になっていることが多かった。「私は幻想」とか「個人も、個人の身体も、現れてくる思考にすぎない」とか。

今回の集まりは、それに対して、明確な「私はいる」から始まった。つまり、自己紹介から始まったのだった。示されたのは「ひとり5秒以上、30分以内で」という目安。

シンスケさんのその提案を聞いたとき、ジョン・シャーマンのメソッドが自分にとってどう革命だったのかに改めて気がついた。つまり、「存在していないはずの自分がまだここにいる。どうすれば消えるんだろう。どうしたら個人の不在を体験できるのかな」ではなく、自分の感覚、たしかにここにあるその感覚をそのまま見ること。あるものをあるものとして見るという、当たり前すぎるのに革命的とも言える行為。

そこで1時間以上にわたって示されつづけたストーリーの数々に並外れた敬意を払うシンスケさんの眼差し(と呼ぶのは軽すぎるかもしれない存在そのもの) にびっくりしていると、会はダグラス・ハーディングの考案した実験に移った。

自己紹介から頭のない現実を見ることに移るとき、そこにあってもよかった戸惑いはどこにもなかった気がする。ダグラス・ハーディングの実験を初めておこなう人も数人いたことを考えると、そのすんなりした移行っぷりは見事だった。

指差し実験、指メガネ、袋 (閉所恐怖症対応版)、もうひとつの袋 (高木悠鼓さん考案のスペシャルバージョン)、触れる実験。

それぞれの実験のあと、参加者のシェアが続くが、そのあとにシンスケさんによる「講評」は続かない。見えたことがすべて、が徹底され、その徹底のためなのか、見えることをあらしめている見えていない何かに対する驚きとも敬意とも賞賛とも呼べない広がりの嬉しさが、ズン!と出てきた。

べたな表現を使えば、シンスケさんはあまりにもキャラが立っている。だから、そのキャラに注意が向いた状態が続いてしまうのは仕方ない。以前書いたことのある「普通の人の恩恵」のようなもののまさに逆。見方によってはグルそのものとも言えるし、分離も増しかねない。実際、シンスケさんといると、自分のつまらなさ、みみっちさ、半端さ、ケチ臭さが避けようもなく迫ってきて、僕の場合、それがいたたまれず、吐き気を感じることさえある。

それでも、「見えるはずのもの」「見えていないとおかしいもの」ではなく、「見えていること」にしたがったとき、そこには外部の権威が存在する余地はない。権威はありえない。権威や外のグルが存在するような気がしたときは、それは「見てごらん」という誘いだ。先生ではなくて今日は先生役をやっているだけ、とシンスケさんは何度か言っていた。つまり、僕も生徒ではなくて生徒役。

先生役と生徒役は役であって、そこに重さが起こることがあっても、それは何かにひっついている何かであって、それに敬意を払ったり、それを大事にする動きを茶化したり、そのとき起こることが適切に起こるだけだ。僕の場合、先生・生徒役の固定状態に対する抵抗がかなり強く、先生然とした歩き方で登場して幅の広いサットサンソファ (彰晃椅子と言うべきか) に悠然と座ったりする人がいると、笑うどころか気分が悪くなるほどで、その好き嫌いに対する条件反射的な自己批判が事態をさらにややこしくすることも多いけれど、今回の集まりで、そのすべての適切さが少しわかったような気がする。それはたぶん、「あなたが主権者」というシンスケさんの説明によってということもあるが、彼が休みなく示し続ける頭のなさによってだろう。

それから、〜的、〜風、〜感の話があった。僕にはすごく響く話で、同時に、〜感や〜風に簡単にやられがちな人間としては痛いところに刺さる話でもある。これについては僕はちゃんと書けそうな気がしないから、シンシケさん(アルファ野郎とも称される)に会ったときに直接聞いてほしいと思う。

それと、僕にとって改めて明白になったのは、このことは「この集まりに出れば手にできるんじゃないか」、「この個人セッションを受け続ければわかる日が来るかも」、「特別な出会いがあればいつか実現するはず」という期待や、「この先生の言うことを聴くべきだろうか」「この方法を続けているのに何も起こらないなあ」といった疑いとは全然関係ないということ。まったく無関係だ。

いつも完全にここにあって、完全に開かれていて、隠そうとしても、その隠すということとして、見つけ出そうとすることとして、どうにもあからさまに現れてしまっているもの。求めることとして、「そうは言っても何も見えないけど」という言葉として、ため息として、自分と途切れなくここで起こっていること。それがある。

ほかにも、ごっそりと抜け落ちていることが何かあるような感じもするが、今は出てこない。

会の翌日からの一日半は、甲府の寺崎コーヒーで最高の香りをはなつコーヒーを二人で飲んだり、八ヶ岳方面にエッフェル塔やモンパルナスが近づいてきたり、蚊よけリングのカラーを家族と一緒に楽しく選んだり、シンスケさんと一緒の濃い (適切に濃い) 時間を過ごした。

いつもは「シンスケさん(わたし)」と自然に出てくることはないけれど、今はこう書きたい。

ありがとう、シンスケさん(わたし)。
ありがとう、正直で美しい8人のわたし。