収縮、解放、個人の不在 ロジャー・リンデン

 
ここ数日、何を求めているのか分からないまま、求めている感覚がとても強くなっている。桜の季節は毎年多少気が変になるから、そういう季節性の変動だと思えばいいのかもしれないが、続くと嫌になる。

先週も同じようなことをしていた気がするが、アジャシャンティの動画を見たり、ダグラス・ハーディングの本を読んだり、誰か今まで知らなかった人が素晴らしい表現をしているのではないかとネットを探索したりと、無益なあがきを続けた。が、気分はよくならない。

そもそもリアリティの本質を認識するとか、真の自己を知るとか、そういうことは頭がどこかから借りてきた観念的な目標のはずだ。だから、それを求めなくてはいけない理由は何もない。求めている感覚が消えさえすればいいのだ。(真の自己を認識しないかぎり、何を使ってその欠乏感を満たしたとしても最終的にはそこに戻ってくる、という理屈はわかる気もするが、それはどうでもいいという気分だ)

どこに救いを求めればいいのか分からず、寝る前には世界平和の祈りに没頭しようとするが、その祈りを通して自分が救われればいいな、というスケベ心が見え隠れして、余計に気分が悪くなったりもした。どこかのインタビューで誰かが言っていた「fake me (偽物の自分)」という言葉がぴったりくるような感じだ。

と、気分の悪さの自慢はこのくらいにしておいて (実際には、悪い悪いと書けば底を打って少しはよくなるんじゃないかというケチな作戦なのだが) 、ロジャー・リンデンがConscious.TVのインタビューで語っていることの一部を紹介したい。

Roger Linden 4 – ‘The Elusive Obvious’ – Interview by Iain McNay

== 以下、ロジャーの言葉の一部の訳 ==

苦しみと収縮

基本的に苦しみというものは、呼吸、それから目の周りの緊張、身体の張り、そしてみぞおちや後頭部や首や喉の緊張に関係しています。こうしたものすべてが、身体の内側に誰かがいて何かをしているという考えから生じています。

ですから、この中に「自分」がいるという感覚があるときは、その感覚を強化するようないくらかの収縮が生じているんです。「自分がやっているんだ。自分があそこに注意を向けているんだ」と。

でも、収縮はやわらぐことも緩むこともあるということがわかると、苦しむことが難しくなってきます。それでも収縮に戻ろうとする動きは起こります。それが強い習慣になっているからです。ただそれと同時に、健やかな状態にありたいという欲求もあります。ですから、少し練習をすれば、よい気分になることはできます。

よい気分でいることは自然なことです。逆に、不快な感覚をずっと感じ続けていることは不自然なことで、なにかが間違っているということを表しています。そして分かることは、緊張と抵抗が間違っているんだということです。そのため、呼吸をやわらげることは大いに役立ちます。とても簡単なことだからです。

解放とは

ここまで気分を良くする簡単な方法について話をしてきました。通常の意味で言うと、今にあって、思考の抽象性にあまり巻き込まれず、過去や未来についての夢想にあまりふけらないことは、役に立ちます。そして、あまり抵抗をしないことで、身体や感情の苦しみが減ります。

ですが、今にいてやすらぎを感じるということは、解放とはまったくなにも関係ありません。やすらぎや良い気分は意識のなかに現れます。でも、これは重要なことですが、それが意識そのものを変えることはありません。どんな気分になろうが、それで解放が起こることはありません。覚醒や解放に近づく上で自分の状態が何らかの役割を果たすはずだと、長年にわたって私も思い込んでいました。

「一定の状態」にあることができるような個人的な自分というものは一度も存在していなかったという認識は、きわめて奇妙なものであるかのように聞こえるかもしれません。それは大変な喪失であるように感じられるかもしれません。人生を正常に経験するためには絶対に必要な何かが失われることであるようにです。「自分がいなければ私は誰なの?」と。

でも、これは実際に存在していたものが失われるということではないんです。これは、これまでずっと間違っていた思い込みが失われるということです。

ですから、実際のところ変わることと言えば、外側の世界だと思っているものを見ている分離した自分が存在しているという感覚がなくなり、経験がただ現れているという認識が生じるということだけです。そして、これ (自分の身体を指差しながら) は経験の一部になります。

== 以上 ==

この部分を聞いていて、アジャシャンティの動画で見た以下のような言葉を思い出した。

「認識が起こると、それはこんなものだろうとマインドがそれまで考えていたこととはまったく違うものだということに気づきます。これまでに、覚醒した多くの人の話を聞きましたが、それが自分が考えていたとおりだったという人には一人も会ったことがありません。すべての人が、考えていたのとは全然違ったと言います」

これを聞くと、その「全然違う」感を体験したくなってしまうのだが、そのときロジャーの収縮の話を思い出し、息を詰めていることに気づく。

すると、息はゆるむ。面白い。