グレッグ・グッド インタビュー (2016秋)

 
非二元の分野にはいろいろな表現者がいるが、この5〜6年ほどいろいろな形で接してきたなかで、自分なりの「選択眼」(単なる好き嫌いとも言う) がはっきりしてきたような気がする。

嫌いなタイプをわざわざ書くのは新年だけに控えておくとして、好きなのはオープンで軽やかでパラドキシカルでユーモラスな表現だ。そこに叙情性が加われば最高。

その意味でグレッグ・グッドは大好きな存在で、会ったことはないが、つねに興味深く見ている。

『ダイレクトパス』を読んだ人は、「彼のどこに叙情性が?」と思うかもしれないが、最後の方に紹介されているニティヤ・トリプタとアートマナンダのエピソードがまさに好例で、グルの時代から友人の時代へと普段言っていながら、グルへの思いが溢れているあの感涙話を最後に持ってくるところが、グレッグの真髄であり自由の最高の表現だという気がする。

そのグレッグが、2016年11月にAfter Awareness: The End of the Path (気づきのあと ― 道の終わり) という新刊を出した。その発売のタイミングで出版社のインタビューを受けていて、今日はそれを訳して紹介したい。

原文: Q&A: Greg Goode, Author of After Awareness

== 以下、訳 ==

Q. 非二元というのはあなたにとってどんなことを意味していますか? それから、数多くのそれぞれ違ったアプローチがあるのはなぜなのでしょうか?

A. 非二元という言葉を、私は分裂の欠如を意味するものとして使っています。言われたとおりで、非二元を認識するための方法は沢山あります。ところで、二元性とは何でしょうか。重大な二元性の一例としては、スピリチュアルの教えに出てくるような典型的とも言える反義語があります。私と非-私、自己と無自己、聖と俗、主体と客体、一と多、心と体、実体と属性、善と悪、悟った状態と悟っていない状態といったものです。

分裂、分離、宇宙的苦痛に取り組む上で、私の好きなアプローチがふたつあります。ひとつ目のアプローチは実体論です。実体論の教えは、ダイレクトパスと同じように、私の個別の「自己」と私たちの本質における他のすべてのものがこの同じ愛に満ちた認識する実体にほかならないことを説明し、示します。この教えにおいては、このひとつの実体に対する生徒の依存はどこかの時点では落ちなければなりません。それが落ちない場合には、分離と執着が増すことになります。

ダイレクトパスではこの実体は「気づき」と呼ばれていて、生徒を他のあらゆる二元性から解放するという仕事を終えると、その「気づき」は舞台から去ります。私の新刊 (After Awareness) には、これがどのように起こり得るかを示した話を載せています。私がこのアプローチを「非二元」的だと言っているのは、分裂や二元性を可能にする基盤がどこにもないということが、非常に直感的な形でそのアプローチでは示されているからです。二元性のように見えるものごとは、気づきという「一元性」におさめられます。ただし、「気づき」は言葉が多過ぎということにはなるのですが。

私の好きなもうひとつのアプローチはそれとはかなり違っています。非実体論的です。一元性の方には向かいません。あるひとつのものを他のすべてのものの基盤として提示することはありません。そのかわりに、自己や他のものごとのはかない相互依存性を強調します。このアプローチでは、ものごとは確かに存在していて完全で独立しているように見えるかもしれないけれども、実際にそれを探そうとすると見つからないということが示されます。見つからないことによって、そこに爽快で途方もない自由が見出されるわけです。このアプローチについては、Emptiness and Joyful Freedom という本で書きました。このアプローチでは「一元性」を見つけようとはしないわけですが、それでも私がそれを「非二元」的だと言うのは、そこでは先ほど言ったような典型的なものを含めたあらゆる二元性が解体されるからです。

なぜ多くのアプローチが存在しているのかについてですが、それは人によって好みや能力や言語やバックグラウンドがさまざまに異なっているからだと私は思っています。よく聞くのは、世界にはあまりにもたくさんのスピリチュアルの教えがあるという言葉です。「どうにもややこしい!」と。混乱をもたらすそうした多様性をどうにかしようとして、万人に最適なものとしてひとつの教えを薦める人がいます (たいていはその人自身の教えです)。でもそれがうまくいったことはありません! 多様性は永久に存在し続けるのではないでしょうか。私はそれが一番だと思いますよ!

Q. あなたの最初の本『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』 (Standing As Awareness) には、非二元夕食会 (ノンデュアル・ディナー) での対話が収められていますね。どういう集まりだったのかについて、少し教えてください。

A. 先生のいない集まりで、何か特定の教えを優遇したりもせず、話す内容を事前に決めていないことも多かったですね。1990年代の半ばにサットサンをする大勢の教師たちがニューヨーク市にもやって来ていた時期があって、その頃に始まりました。その集まりを私たちは「ナチョ・サットサン」と呼んでいたんですが、それは集まっていた場所がごく普通のレストランで、サットサンという感じからはほど遠かったからです。本当に先生的存在がいなかったので、参加する人なら誰でも話せるというもので、いわゆるサットサンとは異なる集まりでした。有名だったり、「悟った人」だと思われたりしていなくても、非二元話をどんな人でもすることができました。

スピリチュアル関係の噂話をしただけということもありましたね。ですが、年月が経つにつれて話の内容を事前に決めておくようになっていきました。性やタントラについて話したり、バクティ対ジニャーナ (ギャーナ)、医薬やハーブ、大規模な非二元会議という新現象、透視、西洋の神秘主義、「悟りとは何か」、仏教対アドヴァイタ、量子力学、「非二元カルトからどう抜けたか」といったさまざまなことを話題にしたりしました。ときどきは話が盛り上がって面白い討論になって、どの教えが優れているかについて熱い議論が交わされることもありました。

全部過去形で話しているのは、ここ何年かは私が忙しくて、この集まりを主催することができていないからです。でも、すごく面白い集まりでしたから、十年以上参加を続けていた人たちもいましたよ。

Q. 二冊目の本は『ダイレクトパス』 (The Direct Path) という題名ですが、ダイレクトパスとは何でしょうか? 段階的な道や他のスピリチュアルの教えとはどういったところが違うものなのですか?

A. ダイレクトパスの何が「ダイレクト」か、ですね。この言葉は、何かになろうとする必要はないということを意味しています。何かを改善したり洗練させたりする必要はありません。私たちはすでに、あらゆるものごとがそれに対して現れる、愛に満ちた「それ」という知そのものです。ダイレクトパスはそのことをきわめて実際的な方法で発見することで構成されています。何かが変わるとしたら、それは視点です。この「ダイレクト」はいわゆる「段階的」な道とは対照的です。段階的な道では、決まった勾配にそって徐々に進む必要があります。理解を深め、より立派になり、反応しやすさを抑制し、「キリスト的」になるといったことです。

ダイレクトパスは「ダイレクト」ですが、だからといってすぐに完了するわけでも自動的なわけでもありません。多くの探究やそれに関連する活動、熟考が必要になります。たとえばですが、ダイレクトパスでは身体を気づきとして新たな解放的なやり方で実際に経験することになりますが、それには一定の時間がかかることもあります。「ダイレクト」というのは、私たちは何か別のものになる必要はないという、ただそのことを意味しているわけです。

Q. ダイレクトパスは万人向けでしょうか。

A. いいえ、違います。万人向けの教えはどこにもないと思います。

Q. どんな人たちがダイレクトパスに関心を持つのでしょうか。

A. 日常世界のように見えるものの背後にある途方もない明晰さ、甘美に輝く知を直感的に感じている人たちにとっては、興味深く感じられるのではないでしょうか。もしくは、インドのヴェーダーンタの伝統につながりを感じている人たちが、ダイレクトパスの方が学びやすいと思うようなケースもあります。あるいは、実験が中心になっているという厳密さに惹かれる人たちもいますね。経験を調べるにあたっては、ダイレクトパスはどんなこともまったく例外扱いしませんから。

Q. 『ダイレクトパス』では、愛について、それから気づきと「恋に落ちる」ことについて書かれています。そこで言われている愛というのは何を意味しているのでしょうか。それは恋愛関係も含んでいますか?

A. ひとつ前の質問で答えた直感に関して言うと、その途方もない明晰さ、抱擁する知を私たちが直感するとき、それは暖かく甘美なものに感じられます。文字通り知覚的にそう感じられるということではなく、魅力的な何か、自分を惹きつける何かとして感じられるという意味です。私が非二元の探究を進めていたころ、空いている時間があるときはいつでも、その探究に穏やかに優しく呼ばれているような感覚がありました。仕事も読書も運動も会話もしていないときには、暖かく素晴らしい開放性に引き寄せられて、ダイレクトパスで言っているようなことに接近していくのが常でした。何かが自分を呼んでいる感じ、家に戻るような感覚、とてつもない発見が待ちかまえているような感じです。ヴェーダーンタの言葉を借りれば、これは気づきの「アーナンダ」的側面が私に対して姿を見せたという言い方もできるかもしれません。西洋の言葉で言うと、これは通常は「愛」と呼ばれます。

私は気づきという「概念」と恋に落ちていたわけではありません。自分が目指そうとしている対象のようなものが存在しているといった感じはなかったです。もしそうだったとすると、ちょっと分析的すぎる感じがしたでしょうね。起こっていたことを表現できる言葉を私は持ち合わせていませんでした。ただただ探究に優しく惹かれていたんです。実際に探究をしていないようなときにも、それについて単に考えるだけでいい気分になりました。

同じことを報告する人たちもいます。ゾクゾクするような感じです。私の場合だと、それが性的なこと、恋愛的なこととして感じられた経験はありません。ですが、人間関係に影響があったのは確かです。ちょっとおかしいかもしれませんが、あらゆる人を好きになった感覚があって、すべての人と同じ本質として存在しているようでした。先ほど言った暖かさが生活のあらゆるところで花開いていました。

それから、恋愛にも影響がありました。

この甘美さを味わい始めた当時、私はかなり難しい恋愛をしていました。自分が以前よりも寛容な人間、理解のある人間、心の広い人間になっていることに気づきました。私の恋愛はしだいに「無条件」なものになっていったのですが、それは理屈としてはあまり筋が通りません。というのも、他の人ではなくその人を選ぶということ自体が、多くの条件に左右されていることだからです。それでも私は愛が広がっていくのを感じていました。

結局は別れることになったのですが (「条件」がここでも登場します)、その後も友人であり続けようという気持ちでした。実際に、今日にいたるまでずっと友人でいます。二十年以上経っているんですが。気づきと恋に落ちることがなければ、私は多分怒りを抱えることになっていたと思います。おそらくは憤慨して相手を恨んでいたのではないでしょうか。

Q. 非二元の探究や実験は日常的な活動とどう両立することができるのでしょうか?

A. ダイレクトパスでは、できることが何種類かあります。

集中してする探究については、運転していたり、道路を歩いていたり、自転車に乗っていたり、機械を操作したりしているときには避けたほうがいいでしょうね! でも、待ち合わせ中、列車に乗っているとき、公園を散策しているときには、いろいろな探究をすることができます。テーブルの上の雑誌でも何でも、ひとつ対象を選んで、それを調べます。その物体を「見ている」ように思えるとしたら、その認識とは切り離されてその物体が存在しているという経験を自分がしているかどうかを確認できます。当然のように、自分は「ここ」にいて、雑誌は「そっち」にあると私たちは思っています。でもその考えを離れてみたとき、そこで見えていることは私たちに何を直接伝えているでしょうか。

もしくは、レストランにいて、ウェイターが注文をとりに来たとしましょう。決められない感じがあるかもしれません。決めなきゃ、選ばなきゃという努力の感覚があるかもしれません。結局注文をナチョスに決めたとしましょう。注文を伝えてから、考えてみる時間が少しありますよね。その選択をした選択主体を直接経験したでしょうか? ナチョスを選んだその選択が本当に選択だったという経験をしたでしょうか? ナチョスが選択されたという考えがそこに伴っていたかもしれませんが、ナチョスという考えが選ばれるところを直接経験したでしょうか? もしかしたらその選択は気づきからひとりでに生じて、それと一緒に「それは自分でした選択だ。ナチョスを選んだんだ!」という思考が出てきたのかもしれません。もっと後になってからでも、少し時間があるときに、この状況を思い出してまた問いかけてみることもできます。

これが集中してする探究の例です。もっと短くて、すぐにできる探究もあります。「リマインダー」と呼ばれるものです。これはミニバージョンの探究です。集中した探究で、雑誌が自分と切り離されているという直接の証拠がないこと、ナチョスを選択した選択主体の存在を示すものがないことを認識できたとしましょう。

リマインダーには数秒しかかからないのですが、その認識の瞬間を心に思い浮かべます。独立して存在する物体や、選択から独立した選択主体を示す証拠はなかったという認識を思い出すわけです。そうやって思い出すのがリマインダーで、それをすることで理解と認識が深まります。

Q. 新刊のAfter Awarenessは『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?』や『ダイレクトパス』とはどういったところが違うのでしょうか。

A. いい質問ですね! 本の題名は似ているように聞こえます。でもこの本は前の2冊とは違います。教えを示すかわりに、この本は教えを脱構築します。最初の2冊は教えの内側から見解を取り上げて、読者にいくつかのステップを歩ませるものです。この本は教えの外側の視点も一部では取り上げて、ダイレクトパスの教えを批判的に検討しています。最初の2冊は実験が中心ですが、この本はもっと思索的です。バランスのとれた視点から教えを調べるもので、教えが真実であるとか虚偽であるといった見方はしていません。

Q. 「愉しいアイロニー」とは何でしょうか?

A. 愉しいアイロニーは幸福と自由の組み合わせです。

「愉しさ」は教えの成果である幸福と自由を指しています。幸福と愛は包括的なもので、そこから漏れるものは何もありません。一般的な言葉を使えば、幸福と愛はすべての他のものを含んでいます。といっても、客観的な意味での他のものというのは存在していませんが。

「アイロニー」は概念性からの解放を意味します。これは、私たちに自由をもたらしたスピリチュアルの教えからの自由をも含んでいます。

愉しいアイロニーは、反二元論の哲学者であるリチャード・ローティの「リベラル・アイロニスト」という概念をもとに私が編み出した考えです。ローティは、人間になしえることのなかで最悪なのは残虐さであると信じている人のことを「リベラル」と定義しました (それに対して、神の法則や自然法則に背くことが最悪の行為だと信じる人は非リベラルです)。それから、自分の世界観が他の人の世界観よりも真実に近いとは信じない人、他の人の世界観に感心する人を「アイロニスト」と彼は定義しました。

私の場合の「アイロニー」もローティの用法に非常に似ていますが、「愉しい」という部分には彼の「リベラル」よりもずっとスピリチュアル的な意味がこめられています。愉しいアイロニーはどれか特定の教えに特有なものではありません。さまざまな教えで私は愉しいアイロニストたちに出会いました。主な特徴は、愛、思いやり、そして自分の好きなスピリチュアルの教えについての独断的態度がまったくないことです。

Q. 新刊After Awarenessではコミュニケーションに関する部分が非常に大きく取り上げられていますが、それはなぜでしょうか。

A. 理由はいくつかあります。この関心は私の育ちに関係しています。これは非二元にも関連することなのですが、そのことについて話す人はあまりいません。

私の両親は芸術家でした。私の家は本や設計図やスケッチや美術作品でいっぱいでした。大学院で哲学を学んでいたころ、言語哲学もそこに含まれていました。それと同じ時期に、学校での勉強とは別に、私は映画と文学に深く関わっていました。たくさん読み、たくさん映画を見て、会議に行き、いろいろ書きました。人生を通じて、私はコミュニケーションの内容だけでなく、コミュニケーションの様式に敏感でした。実際は、「様式」と「内容」もまた典型的な二元性の例であって、それは詳しく調べてみると消え去りますが。

過去20年間、私はネットで尋常ではない長い時間を過ごしながら、こうしたテーマについてのおしゃべりを続けてきました。1990年代初期か、もっと早くに始まった非二元のEメールフォーラムに私は参加していました。当時知り合った人たちとは今でも付き合いがあります。当時のフォーラムの大半は非常に広範なテーマを扱っていました。「アートマ・ダルシャンに見られるシュリ・アートマナンダの叡智」とか「チベットの中観思想」のような特殊なフォーラムはありませんでした。非二元や解放に関するフォーラムがあっただけです。ですから、いろいろな種類のメンバーがいました。ヴェーダーンタ、仏教、道教、西洋神秘主義、心理学、ニューエイジの人たち、科学者、土着宗教の信者、スピリチュアル教師のファン、そういう雑多な人たちがひとつのフォーラムに集まっていたんです。

そうしたフォーラムでは、一種類のボキャブラリーが優勢ということはありませんでした。解放について話していたはずが、話のための話になってしまうことに気づきました。たとえば1990年代後半のことですが、私はあるフォーラムにおいて、当時通っていたペンテコステ派の教会で起こった出来事について投稿しました。ある日曜日にかなりの感情的高まりを見せた礼拝があったのですが、そこにいた沢山のひとたちが精霊を目撃したんです。聖壇の天窓から霧のような強い風が吹き降りてきたように見えました。「霧」と「風」というのは、聖書では精霊の存在を示唆するとされる言葉です。「ただの幻覚を見ただけ」と言おうとする人は誰もいませんでした。私たちにとってそれは精霊でした。当然です。

フォーラムに私のその投稿が現れたあと、ヨガという異なったバックグラウンドを持つ人から返信がありました。その女性は私の見方に賛成していませんでした。「精霊? そうではありませんよ。実際に生じたのは集団的なクンダリニー体験です。その日、そこにいた人たち何人かのクンダリニーが上がったんです」

精霊か? クンダリニーか? それに続いたいくつかの投稿は、使われている言葉や前提を確認しようとするものでした。というのも、それぞれがスピリチュアル的に同じバックグランドを持っていたわけではなかったからです。そういった公開型のフォーラムでは、同じような対話がよく見られました。世界宗教会議のような感じでした。そういう感じの議論を長年続けた結果、私はさらにコミュニケーションに敏感になりました。

もちろん非二元では、言葉と概念を超えていくという目標があります。実際、もっとも認識が深まったときに起こるのはまさにそのことです。ですが、その認識がコミュニケーション、つまり非二元の教えの助けによって準備され、組み立てられ、伝えられてきたという事実を否認することはできません。

非二元とコミュニケーションは三つの重要な領域で交差するというのが私の考えで、本ではそのことについて特に取り上げました。

まずひとつは愛と思いやりです。愛と思いやりはコミュニケーションにおいてそれ自体を表現することがあります。これは話すときや書くとき、そして聞くときや読むときにも起こりえます。コミュニケーションが生じる状況において、愛に満ちた開放性にはとてつもなく大きな機会があります。

二つ目は、言語に実体が無いことです。本のなかで私はこの点について多くのページを割いています。非二元の探究を通じて、言語や思考との関係は、私の言い方で言えば「非指示」的なものになります。言語は絶対的なものを文字通り表現しているという古くからの期待は溶け去ります。そして絶対的なものだけでなく、あらゆることについても同じであることを発見します。言語の実体性の無さを徹底的に見いだすことで、めまいがするような様々な自由がもたらされ、それは本で紹介している愉しいアイロニーが生じる助けになります。

三つ目は創造性です。先ほど言った愛と、言語の非指示性の発見が組み合わさることで、そこに創造力が解き放たれる可能性が生まれます。非二元について、そしてあらゆることについて何かを言うときに、遠慮なく自信を持って新たな方法で表現できるようになります。場合によっては、これは私もそうだったのですが、芸術が以前よりも大切なものとして感じられるようになることもあります。実際のところ、非二元の教えに美術、写真、音楽、著述を組み入れてはどうだろうかと私は考えてきました。創造性があれば、可能性は無限にあるように思えます。

こういった要素は非二元といろいろな形で交差していますが、これについてはそれほど話題にはなっていないようです。それが、今回の本でコミュニケーションというものを重視した理由です。

Q. 気づきのあとに何が来るのかについて、あるいは道の終わりに私たちは何を見つけることになるのかについて話してください。本のネタバレにならない程度でお願いします。

A. 教えそのものからの自由です。本を書いた理由のひとつはそのことです。非二元の教えに関心を持つようになって以来、様々に異なった種類の自由が討論のテーマになっているのを私は見てきました。それから、非二元を支持する人たちが、他の教えに従っている人たちと議論するときに、あたかも非二元がすべての人たちにとって最善の教えだと一般的に認識されているかのように話を進めていることにも気づきました。私から見ると、そういった態度は非二元の教えで示されている自由を表現するものではありません。ですから、そうした自由をもっと強調した方がいいのではないかと思ったんです。

Q. 付け加えたいことは何かありますか?

A. どの道を選んでいいのかわからなくなっている人たちに対して、深刻にならず、ものごとをあまり厳密にとらえすぎないようにしてくださいと言いたいですね。「真実」の道、「正確」な道を探すかわりに、自分にもっとも深く響く道を探した方がいいと思います。なぜその道に惹かれるのかを説明することができないとしてもです。

== 訳は以上 ==

新刊 After Awareness は読んでみたのだが、このインタビューにあるとおりで、ダイレクトパスの教えそのものを扱うものではなく、教えが伝えられる文脈、言語とコミュニケーション、倫理や慈愛等について語るもので、今の自分の問題意識とそれほど重ならない印象だった。

でも、「非二元は倫理とは関係ない」というありがちな見解に対して、グレッグが非常に情熱的に多くのページを使って、非二元と倫理は不可分であると主張しているのはすごく印象的で、自分にはまだ早すぎるだけなのかもしれないとも思った。

それと、このインタビューにも出てくるナチョ・サットサン形式の集まりに対する興味が少し再燃していることに気づいた。去年はジョン・シャーマンのメソッドの後遺症だったのかわからないが、釣り以外はほとんど外に出ない引きこもり的な1年だった。今年はもう少し人に会いに出かけるのかもしれない。