三日目は早く起きることができ、朝一番のセッションに間に合いました。
ルパート・スパイラ
ルパートがmeditationと呼んでいる、彼の静かな言葉による誘導と共に、リアリティのいろいろな側面を実際に見てみるという時間でした。
この日、初めて聞くたとえが出ていました。こんなものです。
「ある特別な地図を想像してみてください。その地図には、あらゆる知覚がリアルタイムで反映されます。身体感覚、思考、感情でも何でも。それぞれが意識に占める割合に応じて、その地図にそれぞれが描かれます。足の痛みが意識のほとんどを占めているなら、それが大きく描かれます。そのようにしばらくやってみてください。時々刻々と変わっていきます」
「次に、これを平面の地図から、立体的なホログラムにしてみてください。そのホログラムの中に、同じように意識にのぼるすべてがリアルタイムに反映されます。」
「さらに次は、そのホログラムが存在している空間に意識を向けてください。その空間を取り除いて下さい。ホログラムはそのままに。空間という感覚があったと思いますが、それがなかったらどうなるでしょうか」
という感じです。ここで、「空間内の存在である脳が、空間のない何かを想像することなどできないでしょ」というような思考が出てきたのですが、その思考もその空間を超えたところにあるホログラムにマッピングしてみました。
その時のことを今考えると、ルパートがいつも言う、すべてに浸透している純粋な認識、浸透しているというよりも、あるものすべてを作っている純粋な認識そのもの、何の性質も持たないそれというものが、何かこのことと関係あるもののように思えます。
が、思い出しながらこう書いてみると、そのエッセンスは無くなっていて、気の抜けたコーラのようになっています。面白いことです。
朝食
食事前のルパートのセッションの不思議な感覚が続くなかで、「自分にはこれは分からない。どうしても理解できない」といういつもの感覚でさえ、その普遍的な何かがそういった混乱として現れている愛ある表現の一つなのだ、という感じに打たれていました。
ジェフ・フォスター
午前のジェフのセッションは、あまり面白くないものでした。自分でも何を期待していたのか分かりませんが、いつもと似た話が独り言のように繰り返される様子には、うんざりしました。
ウンマニが言っていた、「探求はmeを中心に常に巡っている」ということを思い出し、「もしかしたらジェフの探求は終わっていないのかも。終わっていないとしたら、先生役をやらないといけない苦痛はすごいものだろうな」などと勝手なことを考えていました。
スコット・キロビー
この日、最も印象的だったセッションです。探求というものの性質について、ワークショップ風に説明してくれました。
こんな感じです。
「いま、たった今、知覚していることがあります。隣の部屋の声やエアコンの音、窓の外からの光、椅子に接する足や尻の感覚。そうした知覚の中に、何かを求めるという感じがあるでしょうか。たった今の知覚は、何の努力もなく、そのまま起こっていて、それを求めるということはないのではないでしょうか。」
「次に、何か自分が欲しいもの、求めていることを考えてみてください。それを知覚してみてください。どうでしょう。たった今の知覚と、その求めているものの間には壁や距離があるように思えるかもしれません。そして、求めているものがモノとして外部に独立して存在しているように感じるかもしれません」
「では、求めていることを考えているとき、たった今の知覚において、その求めている感じがどのように表現されているか、感じてみてください。身体のどこかの部分にその感じがあることを見つけたら、ただその感じと共に数秒でもいいので一緒にいてみてください」
「すると、どんなことに気づくでしょうか。求めている感覚がそこにあることをただ認めるだけで、何か違いが出るのではないでしょうか」
ということで、皆がスコットの誘導に従ってやってみました。このセッションの主題は中毒ということだったのですが、あらゆる中毒は「自分はこれが欲しい」という欲求の否定から始まると言っていました。
これが欲しいという感覚が生じると共に、通常はその対象が外部にモノとして独立し、同時に自分はその対象物が欠けた存在になります。そのように既に欠けた存在になっているのに欲求だけを否定することは、中毒とその苦しみを生むというのです。
ここでもし、上記のように、欲しいという求める感覚が出たらその感覚をきちんと一瞬でも知覚するということをすると、その欲求は外部の対象物に化けないかもしれないということです。
スコットは、覚醒や悟りに対する欲求、スピリチュアルな探求と言われるものも、チョコレートやドラッグやセックスに対する欲求と変わらないことも多く、上記のようなシンプルなプロセスにより、自分は悟りを求めていると思っていたが実際にはただ単に自分は何か欠けているという感覚から逃れたかっただけだ、と気づくかもしれないとも言っていました。
それが、彼が多くの探求者と接して発見したことだそうです。
その他のセッション
名前は記しませんが、昨年も出た、他の二人のセッションに今年も出ました。昨年はつまらないと思ったのですが、その後一年の間に、「彼はいい」とか「彼女のサットサンは素晴らしい」とか複数の人から聞いたので、「自分の認識が違ったかもしれない」と話を聞きに行きました。
が、全然面白くもなく、響くこともありませんでした。面白い教訓です。